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【賢い投資術】私の体験したニクソン・ショック(1971年)と50億円の依頼を受けたときの話

投資初心者ミナ

・望月さんって、どうやって投資に詳しくなったの?

今回で第8回目となる「望月さん」に「投資の基本的な考え方」について聞いてみたシリーズです。望月さんは、パリで8年証券マンとして活躍し、警視庁の特別捜査官、投資の解説でラジオ日経のパーソナリティも務めていた投資の大ベテラン。いまはNPO法人の専務理事をしています。

NPO法人 専務理事 望月氏

こんにちは、元ラジオ日経「株式宅配便」のパーソナリティのムッシュです。
今回は、ちょっと私の昔話に絡めて、大切な話をさせてください。
この人にインタビュー:望月純夫(もちづき・すみお)氏
1949年生まれ(70歳)。慶応大学法学部卒。旧・四大証券会社の1つ山一証券入社。新日本証券(現みずほ証券)の国際部(所長)としてパリに8年駐在。多数の金融商品に関して広い知識を持つ。また、警視庁(NY市警察)に、特殊捜査官として参画していた経験も持ち、多くの事例・投資手法にも精通している。

現在、経営コンサルタント。株式会社三技協顧問。NPO法人の投資クラブ支援会社「イカス」を設立。専務理事。公式サイトはこちら

元ラジオ日経「株式宅配便」のパーソナリティ。書籍「5年でお金を2倍に殖やす株式投資塾(あさ出版)」を執筆。

望月純夫Twitter @mussu104

私の昔話に絡めて、大切な話

未経験で証券会社へ

いまは投資のコラムを書いていたりする私ですが、実は、1971年(昭和46年)に慶応義塾大学を卒業し、山一証券に入社するまで全く経験がありませんでした。就職活動時は、「証券会社」にするか「商社」にするか悩んでいたほどです。感覚としては、まぁ「銀行」よりは自分に合っているという感じでしかありませんでした。

4月初旬のある日が運命の日となりました。「山一証券」と「伊藤忠」の役員面接の日が重なり、どちらかを放棄するするしかありません。無謀にも山一証券の人事部長に頼みました「一番先に面接をして下さい、伊藤忠の面接に間に合わないので」と。

面接に来ていた他の学生達は唖然としていました。でも、その人事部長は分かったと言って、一番で面接をしてくれました。

何と翌日、山一証券の人事部から電話があり、人事部長が「お昼を食べに来ないか」ということで、ノコノコ出かけて行きました。とても学生の身分では食べることができない「すき焼き」を頂きました。帰りがけに、内定書にサインを求められ、山一証券に入社が決まりました

ゼミの先生に報告すると「大変な会社に入ったね、君は3年持つかな。でもやってみなさい」と。そのとき先生の手には、丸紅の推薦状があり、「これは他の学生に渡すね」と。先生も私の性格・適正を分かっていてくれていたのかと嬉しく思いました。

そして、迎えた入社式

入社式は、山一証券の研修所があった船橋で行われました。その入社式に遅れた社員が「1名」いました。私です

就職活動 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%B1%E8%81%B7%E6%B4%BB%E5%8B%95

友人と別れの徹夜麻雀、うっかりのうたた寝で船橋駅を乗り越し、30分ほどの遅刻、全ての参加者(108名の新入社員含む)に迷惑を掛けてしまい。また人事部長に私の名前を記憶させてしまうことになりました。

研修期間は3ヵ月程度あり、座学と支店研修がありました。座学では、投資に関する様々な指標も学びました。研修3ヵ月の間にどの銘柄が上がるのかというパフォーマンス競争があり、「大正海上火災(現三井住友海上)」を選び、第2位の成績を収め、我ながら、個人的に天才かと思ったりもしました。

支店配属は「名古屋支店」で、新入社員3名が配属されました。寮は4人部屋、土日の休みも4人と一緒で、4人揃えば麻雀、馬が好きな人は中京競馬、笠松競馬の日々でした。当時は「こんな山小屋みたいなところで、俺はいつデートが出きるの」という思いもありました。

ニクソン・ショック

近年の相場で、イギリスの「EU離脱(ブレグジット)」という大暴落が起きたときは、「ニクソン・ショック」時代のことを思い出しました。

1971年8月15日、大事件が起こりました。突然、ニクソン大統領がドルと金の交換を停止したからです。後に「ニクソン・ショック」と呼ばれる大事件です。

誰も判断出きず、不安感の中を株価はズルズルと下落しました。不安なお客様が、新米の私に尋ねられました「どうしよう…?」と。株の世界では分からない時は、本当は動かない方が良いのに、素人同然の私は「持っていなければ、不安は無いですよね」と、下落の3日目に、お客様の株を成り行きで売りました

市場とは皮肉なモノで、3日の急落後は一転して相場は「上昇」しました。

人生、最初の大失敗

その最初の大失敗から、経済や財務的なことの他に、相場哲学・相場心理学の本を読むようにしました。それが、1984年末から1993年までのパリ勤務時代にも役に立ちました

プラザ合意(1985年9月22日)」や「ブラック・マンデー(1987年10月19日)」でも、投資家に適切なアドバイスができ、ユダヤ系の投資顧問会社から自己最高の買い注文額「50億円」をブラック・マンデーの急落過程でいただきました。その彼からその後貴重なアドバイスが返って来ました。

5年以内に証券人口が半分になる?

それは日経平均が38,915円(1989年「12月末」)の大天井を打つ年の「夏」のランチミーティングの席で、今後5年以内に日経平均は15,000円まで下落し、現在の証券人口15万人が半分になる時代が来る可能性があると。

理由を聞くと、1929年のNYダウの株価大暴落の当時、NYにはエンパイア・ステート・ビルが建設されたが、世界恐慌の影響でオフィス部分は10年以上、多くが空室のままであった(その状況をエンプティ<空っぽの>・ステート・ビルと呼ばれた)。そして、次は東京の新築ビルや横浜のランドマークタワーに「バブルの崩壊の予兆」が見られると。

引用:楽天証券|日経平均株価の過去から現在、そして今後を読み解く
https://www.rakuten-sec.co.jp/web/special/fund_stock_nikkei/

フランスの事務所の現地法人化の話

一方、みずほ証券(当時、新日本証券)の「パリ駐在員事務所」が、「現地法人」に昇格が検討されており、私は「社長」のポストは目の前になりました。

パリの駐在員事務所の現地法人化は、他の中堅証券会社も最大の課題でした。銀行も争って現地法人化に走りました。当時のフランスには15社の日系の証券会社がありました。1990年からの下降トレンドの中、現地法人化を中止して撤退するかを考えていました。一番先に撤退すると「狂った」と思われるので、最下位ランクの証券会社の撤退を待ち、まだバブルの余韻が残る中、1993年には完全撤退をすることができました。それからの日本の長い不景気が続いたのはご存知の通りです。

現地社員の次の転職する先のお手伝いをすることができ、良き海外生活だと、いまでも振り返ることができます。最後に、大切な2つ格言を送りたいと思います。

「見切り千両、損切り万両」
見切りをつけることは千両の価値があり、損失が小さいうちに、損を確定させることは万両の価値がある)

「人の行く裏に道あり、花の山」
(みんなが行くのと反対側のあえて誰も行かないような場所に、たくさんの花が咲いている)

次回は、また異なる角度で学んでいきましょう。

それでは、賢い資産運用を。